はじめに
クリスチャンの方は、もちろん礼拝に行くのは当たり前だと思っていると思います。
僕もそう思って生きてきたのですが、ここのところ仕事で(介護職)日曜日の休みがなく、礼拝に行けないことが多いのです。
いや、ここのところと言うか、施設で働き始めてからはほとんど礼拝に行けていないです。
どうしても日曜日休みが取れませんし、自分だけ日曜休みというわけにはいかないのです。
なんせ、施設は365日24時間やっていますから。
そんな中、礼拝は家族だけで行き、自分は仕事ということが多いのです。
クリスチャンになってから34年。クリスチャンになりたての高校生の頃は、日曜日は朝から夜遅くまで教会で奉仕をしていました。
それだけ楽しかったのですね。
でも、今はほぼ行けないし、行けても気を使い疲れてしまいます。「来れて良かったですね!」「今日は仕事じゃなかったんですね!」(仕事じゃないから来てるんだけど…。)など。
その中で持った疑問。
「なぜ礼拝に行かないといけないのか?」
「教会に行かなければいけない理由は?」
皆さんはどう思われるでしょうか?
今日はそれを考えていきたいです。
子供との会話を通して学んだこと
ある日曜日の日、子供にこう言われました。「礼拝行きたくないなぁ。家で礼拝しちゃいけないの?」家族だけで家で礼拝。
その日(1/1)は僕は、夜勤明けで礼拝は午後からだったのですが、元旦ということもあり、疲れていて礼拝には行かないことにしました。
なぜなら、礼拝中寝てしまうのは絶対ですし、気を使わせてしまうのが嫌だったので。
牧師先生は、説教中信徒が寝てしまうことに敏感になっていました。
それで休むことにしました。
その時、中学生の娘が「礼拝行かないといけないの?家で礼拝しちゃいけないの?」と言ってきました。
ちゃんと答えることはその時はできませんでしたが、後で考えました。
その日は、妻と中学生の次女は教会の礼拝に行き、長女と三女と僕は家で家族礼拝をすることにしました。
その中で改めてなぜ、教会で礼拝をするのか、考えてみました。
なぜ礼拝(教会)に行かなければいけないのか?
まず、それらしいネタをネットで探しました。
ありました。
中川健一先生の「教会に行くべき理由は何ですか。」です。
その中で中川先生は「聖書には一匹狼のクリスチャンは出て来ません。」と言っています。
なぜ教会に行くのかという答えには、一つの聖書箇所を引用しております。
「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒の働き2:42)
1,初代教会の手本があるから。
2,信者は神の家族の一員となったから。
3,信者はキリストの「からだ」の一部とされたから。
そして、「教会出席は、実行してもしなくてもよいものではなく、神からの命令です。」と言っています。
言っている意味はわかります。
ですが、これで子どもたちが「よし教会に行こう!」とはならないのです。
子どもたちにとって教会は行きたいところではなくて、つまらないところであるからです。
「神の家族」、本当に家族になっているだろうか?
「初代教会の手本」、初代教会とは現代の教会はだいぶ違っています。
「キリストのからだである教会」、そう、それこそ普遍的な教会です。一(いち)教会ではなく、私達はイエス様を信じたときからキリストの体の一部とされました。
その日、子どもたちに話したことをお伝えします。
ただほん的礼拝に行く意味
僕ただほんが考えた礼拝に行く意味は、自分がイエス様を信じていることを自分自身に宣言するためです。
教会に行き礼拝をすることを通して、「自分はイエス様を信じているんだ!」と宣言するのです。
皆が、教会に行き礼拝をし、「自分はイエス様を信じているんだ!」と宣言するなら、強い教会が出来上がっていくと思うのです。
高校生の時、教会に行き始めて、楽しくてしょうがなかったです。
しかし、途中で牧師の一人に怒鳴られ、とても傷つき、教会に行きたくなくなりました。
それまでは一週間のうち、ほとんど毎日教会に行き、奉仕をしていたのですが、その時から日曜日の礼拝だけになりました。
でも、日曜日の礼拝だけは行っていました。
なぜかと言うと、当時、自分は音響や礼拝メッセージの録音などの奉仕をしていたので、休めなかったのです。
多分その時、自分の心の中で、人につまずいてもイエス様だけは信じていく!という信仰があったのだと思います。
自分自身に「イエス様を信じているんだ!」と宣言していたのです。
その宣言が自分の信仰を作り上げていきました。
礼拝は信仰の宣言であり、その宣言の上に教会は建て上げられていくのです。
子どもたちに伝えたのは、「あなた達がイエス様を信じているなら、自分のためにも教会(礼拝)に行き宣言するべきです。これから先、どこの教会でもよいが導かれるところに行きなさい。」と。
大切なのは、岩の上に(信仰の宣言)の立っているのか、砂の上に(自分の誇りなど)立っているのかです。
信仰の宣言の上に立った教会でありたいですね。
『シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」』(マタイ16章より)
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