ただほんの考える「キリスト教会の献金について」話します。

キリスト教の教え 悩んでる人へ

tadano
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こんにちは、ただほんです。

今日は「キリスト教会の献金について」考えてみたいと思います。

献金について

「キリスト教会の献金(けんきん)について」考えていきたいと思っています。

某宗教団体の献金について

今、ニュース等で連日報道されていることに「某宗教団体の献金」があります。

まず、言わなければいけないのは「某宗教団体」はキリスト教ではないということです。

キリスト教会から見れば異端というグループに分類され、昔から問題とされてきました。

「某宗教団体」の問題の中で「献金」があります。高額な献金を強要され、家族が犠牲になっています。安倍元総理の事件でも容疑者のお母さんが高額の献金をしてしまい、家族が路頭に迷ってしまった背景があるようです。

宗教や信仰を楯たてにして家族を犠牲(きせい)にすることは間違いです。

たくさんのお金を捧(ささ)げなければ救われない、なんて大きな間違いです。

もしそうなら、お金持ちだけが天国に行けるでしょう。

しかし、イエス様は聖書で言われました。

『さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、このやもめの女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」』(ルカの福音書21章より)

お金持ちはたくさん献金していました。

貧しいやもめの女の人は、レプタ銅貨ニ枚です。(たぶん、今だったら、2、3百円)

イエス様が見たのは、献金の額ではなく、献金する人の心でした。

額じゃないです。

パーセントでもないです。

ある人は「このやもめは100%捧(ささ)げてるから私たちも100%捧(ささ)げよう!」となんて言うかもしれませんが、それは間違いです。

そんなことをしたら、生活が破綻しますよ。

聖書ではなんと言っているのか

イエス様が見ているのは捧(ささ)げる人の心です。

『人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』(第一サムエル記16章より)

これは、預言者サムエルが、次の王になるダビデを見出すときに神様がサムエルに言ったことです。

神様は心を見ます。その人の心が神様の前に正しいかどうか見ています。

献金も心から捧げているか、それを第一にしているのか、そこが重要です。

なぜ、多額の献金を求めるのは間違ってるのでしょうか?

そこに人間的な思いが入っているからです。某宗教団体では「ノルマ」だったり、キリスト教会では教会の運営費がどうしても必要だったりすると、多額の献金を求めるようになってしまいます。

教会の運営費が足りないと、献金のすすめが多くなります。

献金のすすめばかりしている教会も問題です。

お金持ちがいっぱい献金したからとしても天国に行けるわけではないですし、献金イコール良いことにつながるわけではないのです。

お金を捧げたから罪が赦されるとか、先祖の罪が赦されるとか、そんなことはありません。

聖書の言う「罪」とは、本当の神様から離れていることですから、お金を捧げたりすることでは赦されません。

では、どうしたら赦されるのか?

そのために、神のひとり子のイエス様が代わりに死ななければいけなかったのです。

それほど「罪」は重いものなのです。

そんなお金をいっぱい捧げたぐらいでは赦されません。

じゃあ、どうすれば救われるのでしょうか?

『そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。』(使徒の働き16章より)

ローマの看守が、パウロとシラスに「どうしたら救われるか?」と聞きました。

パウロは「お金をたくさん献金しなさい。土地を売って献金しなさい。」なんて言いませんでした!

ただ、「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます。」と言ったのです。

その結果、ローマの看守は救われて、人生を、お金だけでなく、すべてを捧げたのです。

感謝のゆえに、捧げたのです。

某宗教団体の献金の教えが間違っているのは、献金をすることによって先祖の罪や自分の罪が赦されるかのように言っていることです。

献金は、救われるため赦されるために捧げるのではなく、救われたこと赦されたことに関して、感謝の表れなのです。

その感謝の金額は、それぞれが考えて示された金額を捧げるのです。だからいくらでも良いのです。

献金について、パウロはこう言ってます。

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(第2コリント9章より)

それぞれが心で決めたとおりの献金を捧げましょう!感謝の表れとして。

キリスト教会の献金について

おもにキリスト教会では、献金が4種類ほどあります。

  1. 礼拝献金 礼拝時に捧げるもの。
  2. 十分の一献金(月定献金)月の収入からの献金。
  3. 感謝献金 結婚、葬儀、何かの折に捧げるもの。
  4. 特別献金 会堂献金や目的のある献金。

十分の一献金とは

その内の十分の一献金は礼拝献金の中に含まれると思います。収入の十分の一ということに引っかかる人もいると思います。高いって。

この教えは、もちろん聖書から来ているのですが、旧約聖書のマラキ書です。

「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。
しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだのでしょうか。』
それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、
わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。
十分の一をことごとく、宝物蔵に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。
こうしてわたしをためしてみよ。ー 万軍の主は仰せられる。ー  わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

(旧約聖書、マラキ書3章8から10節)

十分の一献金はここから来ている教えです。ちょっと考えてみてください。

誰に、神様は十分の一を捧げるように言っているのでしょうか?

ユダヤ人に対してです。十分の一の教えは、イスラエル人(ユダヤ人)が神様から与えられた律法の教えです。その教えから離れ、捧げ物をしなくなったイスラエル人(ユダヤ人)に言っているのです。

もともと律法はイスラエルに与えられたものでした。それを守らなくなったイスラエルに言っているのです。

僕たちは聖書で言う「異邦人」で律法は与えられていません。

つまり、十分の一献金の教えは間違いです!

個人で十分の一献金に対しての信仰を持っていて捧げるのは良いです。

でも、キリスト教会が、教会として十分の一献金を教えていくのは間違いです!

現に、新約聖書ではその教え(律法)はありません。使徒の働き15章では、教会にて会議が行われ、異邦人の信者に「割礼を受けさせ、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言うユダヤ人達が出てきます。

教会の答えは、

「聖霊と私たちは、次のぜひ必要なことのほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。
すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」(使徒15章28,29節)

異邦人には負わせない、律法を。ただ、偶像に供えた物、血、絞め殺した物、不品行を避けることを守りなさい。

そこに、十分の一献金の教えはありません。

十分の一は、歴史的に見ると、ローマの国が税のような形で行い、それを宗教改革でプロテスタント教会は否定して、自由献金にしました。

それを今のキリスト教会は戻したのです。なぜかと言うと、教会の運営費のために良い教えだからです(たぶん)。

教会は運営費がかかります。ガス、水道、電気、車の維持費、人件費(牧師の給料)など、それを賄わないといけませんので。建物を借りていたら、その賃貸料も。

ある教会では、月に賃貸料が500万円!(献金のすすめが多くなりました。)

そこで十分の一献金です。手っ取り早いでしょ。

なので、僕はいつも疑問に思っています。もちろん直接は言いませんが…。

キリスト教会に言いたいのは、「十分の一献金をやめて自由な礼拝献金にしませんか?」ということです。

そのほうが、みなクリスチャンは心から捧げれるようになり、献金もいっぱい捧げられると思いますよ。

もう一度、パウロの言葉に戻りましょう。

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(第2コリント9章より)

こちらも興味があればどうぞ。

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