「聞けイスラエルよ(申命記6章)」
マルコの福音書12章28節〜31節「第一の戒めはこれです。『聞けイスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、主を愛しなさい。』
第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」
心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、主を愛することも、隣人を自分自身のように愛することも、聞く耳がないと出来ません。
『聞けイスラエルよ』とありますから。
その後に「心を尽くし主を愛する。隣人を愛する。」と続きます。

聞くとはどういうこと?
聞く…人の話を聞くこと。
あなたは話をよく聞く人ですか?
それともよく話す人ですか?
人の話を聞かずにずっと話し続ける人っていますね。本当にうんざりしますね。
でも、多くの人は話を聞くことよりも自分の話をするほうが多いのではないでしょうか?
私の妻は聞いていないことが多いです。例えば、テレビを見ていると、横から話しかけても返事すらしませんから。
目の前のテレビに一心に集中していますから、他の声は聞いていません。
話しかけてもこっちがあきらめてしまいます。
大事な話はテレビを付けたままではダメです。テレビを消してこちらに集中させてから話さなければいけません。
かくいう私も、家族の話は聞けていないかもしれません。
昔から人の話は聞く方でしたが、家族の話となると聞けていないかもしれません。
子供が今日あったこととか話すと上の空で返事をしていますし、妻の話も右から左へ…(そんなギャグありましたね)。
聞くということは難しいことです。
聞くということには、責任が伴います。
あなたが聞いたら、それを行う責任が伴ってきます。
聞くということは明け渡すことです。聞いたら明け渡さなければいけません。
信仰は聞くことから始まる。
信仰の主役は神様であって私たちではないのです。「私の信仰は」ではないのです。
信仰は神の言葉により、聞くことから始まる。
「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」(ローマ10章17節)

マルタとマリアの話し。
イエス様が来られ、マルタは忙しく働いています。イエス様と弟子たちをおもてなししなければと頑張っています。
マリアは、イエス様の足元にひざまづき、一心にイエス様の話を聞いています。(おもてなしもせずに)マルタはイライラです!
なんで私だけ働かなきゃいけないの!イエス様あんまりです!妹に言ってください!
って感じです。
自分だけって思うとイライラしてきますよね。
イエス様は言われました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」(ルカ10章より)
私たちはマリアのように『聞く』ということに集中する必要があります。
イエス様の声を『聞く』、イエス様の言葉を『聞く』、それに集中することが大切です。
あなたが最後に聞く声は主の声である。色々な声が聞こえてくるかもしれないですが、最後に聞く声は主の声、神様の言葉です。
他のことはやらなくて神のことだけするのはカルトです。
信仰者は神の約束と自分の人生を重ね合わせていくのです。
いろいろなことをやりながらも最後に聞くのは神様の声です。

あなたは神の声を聞いたことがありますか?
神様は色々な方法を通して語ってこられます。
多くの場合は、聖書を通して語られます。
ある時、疲れて集会に行くのをやめようと思っていたら、祈っていると「集まることをやめたりしないで」という聖書の言葉が頭に浮かびました。
「行け」ということだなと思い、集会に行くと中学生の女の子と会い、イエス様のことを伝えることが出来ました。
またある時には、教会学校の生徒が関西に引っ越したので、関西の神学校に行っていた私はその子に会いに行くことにしました。
行ったことのない場所でバスに乗り、降りる場所もわからず、「神様、どうしましょうか…」と祈ったら、「ここで降りなさい!」という言葉が聞こえてきました。バスを降り、横を見ると、その子が自転車で横を通ったのです。「あ!」と私もその子もびっくりして言いました。
神様は色々な形で語られます。
「イエス様、私に語ってください」と祈るなら、必ず語ってくださいます。
心を開いて、神様の声を聞いてみてください。
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