「救い」とは何か
まず「救い」とは何かを考えてみましょう。
キリスト教の、聖書が言っている「救い」とはどういうことでしょうか。
「救われた!」って言葉はどういうときに使いますか?
救われたギター
たとえばですが、僕は今から18年前に妻と結婚しましたが、その時に妻に頼んでギターを買ったんです。
Martinのギターです。当時、20万以上出して買いました。新婚でですよ。お金のないときです。
それから16年近く経ち、ギターも引っ越しを繰り返し(自分たちが横浜、福岡、山梨、神奈川と引っ越しましたので)、環境も悪く、ギターは傷んでいきました。
1,2弦あたりの音がビビりはじめて。
買ったギター屋さんに持っていきましたが、治すのに20万以上かかるし、新しいの買っても変わらないって言われてしまい…。
高いし、やっぱり新しいのを買う気はしないし、使い慣れているので。
それで違うギター屋さんに持っていきましたが、そこでは18万円ぐらいと言われ治すことにしました。
半年ぐらいかかるそうなので、預けて待つことになりました。
代わりに5万ぐらいのギターを買い、うちではそれを次男と名付け、Martinのギターを長男と名付けました。
そして、半年以上経ちましたが何の連絡もありませんでした。
それから1年以上経ちましたが、一回も連絡がなく。
ギター屋さんに連絡すると「すみません、手違いで、修理のところで止まっていました。」と。
つまり、忘れられていたのです。「まじか!」と思いましたが、それから急いでやってもらい2ヶ月後には修理を終えました。(おまけにお詫びで3万安くなりました!)
かくして長男Martinギターは修理を終え我が家に帰ってくることができました。
死にかかっていたギターは生き返り、良い音を出すようになりました。ビビった音はなくなりました。
ギターは救われたのです。
15万円という犠牲を払って。
これは例えです。
一般的な救い
現実の生活に関係した救いです。
病気が治り、健康になるとか。
人間関係が良くなり苦しみから解放されるとか。
経済問題から解放されるとか。
そういった現実的救いが一般的な救いです。
聖書の言う「救い」とは
では聖書の言う「救い」とは何でしょうか?
聖書の言う救いは、もっと深い「魂の救い」「永遠の命に至る救い」「神の御怒りからの救い」です。
私達人間は、皆、罪を持って生まれ、罪のない人はいません。
皆、本当の神から離れ、自分勝手に生きています。
どんなに素晴らしい人でも、本当の神から離れているなら、その人は罪人です。
「罪」とは、私達を造られ、私達を愛してくれている本当の神から離れていることです。
全人類が罪を犯しているのです。
そのままでは、神のもとには行けません。
だからこそ、神のひとり子のイエス様が来てくれたのです。(クリスマス)
そのイエス様が、私達の罪のために十字架にかかり、苦しみを受け、死んでくださり、3日目によみがえってくださったことによって(イースター)、
信じるならば救われ、神のもとに帰ることができるようになったのです。
これが、聖書の言う「救い」です。
『では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(ローマ10章8〜10)
救いの順序
①私の罪のためにイエス様が死んでくださり、よみがえったことを信じる。(心のなかで)
②それを、言葉にして告白する。つまり祈る。
そうするならば、「救い」を受け、本当の神様のところに帰ることができるのです。
僕も、今から34年前にイエス様を信じ、この「救い」に預かりました。
それからも、イエス・キリストを救い主として信じて続けています。
「救い」は変わらないのか
ここからが本題です。
「救われた」という人で、行動が伴ってない人いませんか?
たとえば、不倫している人や、お金の問題を起こしている人。
信じるのをやめて、他の神を信じるようになった人。
そういう人の救いは、変わらないのか?
一度は信じたけどやめた人。
行動で罪を犯している人。
救われているのだろうか?救いは変わらないのだろうか?
皆さんはどう思われるでしょうか。
ある先生は「救いは変わりません。信じるのをやめる人ははじめから救われてないのです。」なんて言っています。
また、「神は憐れみ深いから必ず悔い改めに導かれるはず。」なんて聞きました。
そうかも知れません。
でも、なんかモヤモヤするのです。
死ぬ間際、悔い改めるかなんて、誰にも保証できないですよね?
まして、他の神を信じて死んだら、救いがあるとは思えないのです。
そして、人間には自由意志が与えられているので、最終的に信じるか、信じないか、を決めるのは自分にかかっています。
一度信じても、信じるのをやめることもできるのです。
ただほんの結論
「救い」は変わらないか、結論としては「YESでありNO」です。
たとえ、その人が、不倫したり、お金の問題を起こしても、はたまた、殺人を犯してしまっても、必ず悔い改めてイエス様のもとに帰るなら赦されると信じます。
その人がイエス様のもとに行くなら、救いは変わらないです。
神様の愛は「無条件」ですが、救いは「条件付き」です。
『信じるならば救われる』です。
それは『信じ続けるならば救われる』ということです。
信じるのをやめたり、他の神を信じるようになるならば、「救い」はないのです。
そして、神様は自由意志を与えてくれているので、最後の最後まで信じるか信じないかは、人間に任されているのです。
信じるならば、イエス様は極みまで必ず救ってくださり、決して見捨てはしません。
あなたもこのイエス様を体験してみませんか?
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