こんにちは、ただほんです。
今日は、キリスト教会でよく聞く「教会籍(きょうかいせき)」について考えていきます。
籍とは
一般的に「籍(せき)」と言うと「入籍(にゅうせき)」や「戸籍(こせき)」など名前をどこかに入れるようなイメージがあります。
せき(籍)の解説
1、戸籍。「結婚して籍を入れる」
2,学校や団体の一員として名を連ねること。また、その資格。「大学に籍を置く」
戸籍(こせき)、本籍(ほんせき)、原籍(げんせき)、国籍(こくせき)
goo辞書より
そんなによく使う言葉ではないですが、大事なことのように思います。
“戸籍制度”とは、国民の出生から死亡に至るまでの親族的身分関係を、時間的序列に従い記録した戸籍簿によって、個人の身分関係を登録・公証するという制度のことです。日本では同一の戸籍に記載される夫婦と子供の三者間の”氏”は同じものとされているため、親族的身分関係を容易に把握することができます。
家樹より
外国にはこの”戸籍制度”がない国が多いです。日本の場合、この戸籍を使って自分の家系図などを知ることができるかも知れませんね。
教会籍とは
では、”教会籍”とは何でしょうか?外国の教会にもあるのでしょうか?または”聖書的”なのでしょうか?
一言で言うならば「教会版戸籍」ですね。
自分の所属する教会、礼拝式に参加し、献金を収める教会に”籍を置く”。英語では「メンバーシップ」です。(メンバーシップと言うと少し軽いイメージになりますね。)
中川健一先生の聖書入門では、聖書には正式な会員制度なるものを命じた箇所はないと書かれています。ただ、初代教会も組織はあり、会員制度の存在を示唆しているところはあるそうです。
会員制度によって、牧師は自分の牧会する境界線を知り、信徒もお互いが責任を持ち、仕え合える。
会員制度がなければ出来ないということでしょうか。
いずれにしても、この”会員制度”が”教会籍”のことを表しているということでしょうか。
聖書では、”教会籍”なるものはありませんが、何らかの”メンバーシップ”はあったようですね。組織を運営していく上で、ですね。
「教会籍」は日本独自のものかも知れません。日本は”戸籍”というものがありますし、”籍を置く”という言葉も良く使いますし、それを日本の教会も取り入れたのかも知れません。
もしかしたら、戦争中に国がキリスト教会を管理しやすくするために教会員を名簿に載せたりしたことが初めかも、って思いました。はっきりしたことは言えませんが、教会員の管理、もしくは支配ということがキーポイントかも知れません。
教会、もしくは牧師は、教会員がどこの集会に行くか、他の教会に参加する時は、許可の権限を持っている?
牧師の許可をもらわないと!
これらは間違っていると思うのです。どこの教会に行こうと、どこの集会に行こうとその人と主(神様)との問題ですから、牧師の許可はいりません。
ただ、自分の教会の牧師との信頼関係の中で、報告をしたり、意見を聞くことは有りです。
でもです、許可は必要ありません。それらは、”教会籍”から来る、その人の籍は教会にあり、その権限は牧師が握っているとの間違った考えから来ていると思うのです。
信徒を守るため、と牧師は言うと思いますが、牧師や教会より神様のほうが信徒の人を守ることができるはずです。
”教会籍”とは、そういった問題のある考え、教えです。(もう一つ問題のある教え「献金」についてのブログも良かったら!)
ただほんの教会遍歴
ただほんは今から30年以上前に横浜のあるペンテコステ派の単立の教会でイエス様に出会いクリスチャンになりました。その教会では「教会籍」があり、他の教会に移る場合は「転籍」なるものをしなければいけませんでした。
ただほんも、北海道の神学校(牧師になるための聖書学校)を出た後、その”母教会”を出ることになりました。
理由は、その神学校が”母教会”の勧めている「神学校」ではなかったのと、当時、その教会の副牧師(主任牧師の息子さん)が多数の女性と不倫して、教会が大混乱になっていたから、戻れる状態ではなかったからです。
そのため、教会を移ることにしました。牧師に聞くと、「転会届を出すように」と言われました。
そこで初めて”教会籍”なるものがあることを知りました。
ただ、移る教会は”教会籍”なるものはなく、温度差を感じました。
その後も、いくつかの教会に移りましたが、あまり”教会籍”を気にしている牧師や教会はなく、ただの「メンバーシップ」でした。
日本の昔からある教会にはこの”教会籍”があるようです。
自分の所属する教会、礼拝式に参加し、献金する教会、そこのメンバーである。それは悪いことではないように思えますが、”教会籍”なるものになると別のものになってしまいます。
自分のキリストにある”戸籍”を教会に握られているような感じです。
それは違うと思うのです。
(「教会に行けない人たち」へのブログもありますよ!)
教会とはこうあるべき
まずは、「普遍的教会」があります。
イエス様を信じたときに、イエス様の体なる教会の一部とされました。それは、全世界的なキリストにある教会です。
「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」第一コリント12章
イエス様を信じた人は、キリストの体に入れられたのです。それは、〇〇教会や〇〇派の教会ではなく、一つのキリストにある教会です。
私達は一つのキリストにある教会とされているのですから、「あの教会はうちの信徒を持っていった。信徒泥棒だ!」なんておかしな話です。
隣の教会が、信徒を連れて行ったなら祝福してあげれば良いじゃないですか。
そうするならば、祝福は広がっていきますから。
さて、もう一つ「地域教会」というのがあります。
それぞれの地域にある教会です。地域教会は縄張り意識が強く、さっき言ったように「羊泥棒!」なんて言葉をよく聞きます。
自分の信徒を守ろうとするあまり、他の教会を受け付けないのです。
良いじゃないですか、羊(信徒)連れて行ってもらえば!そうして福音が広まっていくならOKじゃあないですか。
今の教会は自分の教会ばかりで、 成長が止まっているように思えます。上に高くではなく、横に広がっていくことのほうが、聖書的です。
「教会籍」などに囚われずに、もっと広い視野で見ていくべきです。これからの時代は、キリスト教会はメガチャーチではなくて、広がる教会が求められていくでしょう。
「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
マタイの福音書28章18節〜20節
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